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府医ニュース
2018年5月16日 第2856号
日本医師会長、大阪府医師会長などを務めた植松治雄・府医顧問が3月7日、86歳で死去した。常に国民目線で住民の健康確保を考え、生涯の大半を国民医療の向上に尽くした。その植松顧問を偲び、4月15日午前、「故 植松治雄先生を偲ぶ会」が植松家・大阪府医師会・堺市医師会の主催により大阪市内のホテルで営まれた。医療関係者や政界などから約500人が参列し、偉大な功績を振り返るとともに、一同は植松顧問が願った「国民目線の医療」の実現を目指すと誓った。
植松顧問は、昭和44年に当時所属していた南区医師会の理事として就任。以来、約半世紀にわたり医師会活動に傾注してきた。59年からは堺市医師会長を3期、平成2年から府医会長を7期14年務めた。その後、16年から1期、日本医師会長として、当時絶大な影響力を持った小泉純一郎内閣と社会保障政策を巡り対峙。「国民本位の医療」を掲げ、持って生まれた強いリーダーシップで医療界を先導した。40もの医療関係団体をまとめ国民医療推進協議会を立ち上げ、全国で活動を展開。混合診療解禁を巡っては、これに反対する600万筆の署名とともに請願を衆・参両院議長に提出し、本会議で全会一致で採択された。翌17年には患者負担増を阻止すべく国民運動を実施。全国から1700万筆超の署名が寄せられた。こうした行動が結実し、公的国民皆保険制度を堅持できたことは歴史的偉業である。その後も府医顧問を務め、時の執行部を叱咤激励し、常に国民目線による医療を追求してきた。
偲ぶ会の冒頭、参列者は黙祷をささげ、それぞれが植松顧問の功績を改めて心に思い描いた。次いで茂松茂人会長が追悼の辞を述べた。まず、植松顧問との接点は、平成10年4月の医療問題研究委員会であったと紹介。その後、13年8月に府医理事として執行部に加わったが、当時の植松顧問の様子を「あらゆることに精通し、ごまかしがきかなかった」と述懐した。一方で、会務に対する真摯な態度・情熱、強いリーダーシップに惹かれ、「たちまち虜になった」と語った。また、植松顧問が府医会長時代、大阪府地域医療推進協議会の協力を得て実施した、「医療制度改悪に反対する大阪府民1万人集会」(13年11月23日開催)では、2万人が参集し、会場となった大阪城ホールが埋め尽くされ、一部の参加者は場外で見守っていたと言及。集会が成功したことで「医師会はやればできる」との自信が、集まった人々すべてに満ち溢れていたと振り返った。最後に数々の功績に改めて敬意を表し、「遺志と情熱を受け継ぎ、将来に誤りのない対応を行う」と霊前に報告し、決意を新たにした。
各人よりお別れの言葉が述べられた後、遺族代表(ご長女)および岡原猛・堺市医師会長が謝辞。植松顧問の思い出を語り、感謝の言葉を送った。その後、参列者が順に献花。祭壇の植松顧問を見つめ、故人の人柄と功績を偲び、哀悼の意を表した。
植松顧問の日医会長時代の功績に触れ、特に国民医療推進協議会の設置と国民運動の展開を取り上げた。国民本位の医療を提供するという植松顧問の考えは、「日医の歴史に燦然と輝いている」とし、国民が過不足なく必要な医療を受けられるよう一層の努力を重ねると誓った。
植松顧問が日医会長時代に副会長を担い、当時を振り返った。また、同氏は、「大阪の偉大な会長であった」と評し、自身と親交のあった府医関係者は「すべて植松顧問を慕っていた」と言及。植松顧問の「府医と東京都医師会が協力して日医を支える」との思いが、横倉・日医会長により実現したと述べ、これからも見守ってほしいと語りかけた。
植松顧問と同窓。医療不信が強まった時代、日医会長として国民の目線から医療安全の確立や社会保障の充実に努めた先輩をたたえた。同氏はトップとしての選択を迫られた際には、「植松先生ならどう動くか」を考え、行動に移したと語り、「もっと前からご指導をいただいておけばよかった」と哀悼の意を表した。
大阪府副知事を退任後、参議院議員選挙への出馬を植松顧問が支援。大きな支えがなければ議員生活が送れなかったと謝意を表明した。「人生100年時代」と言われる中での早世を悔やみつつも、大きな功績をたたえた。
医師会関係では、日本医師会・横倉義武会長を筆頭に都道府県医師会や十四大都市医師会長および郡市区等医師会長から植松顧問の逝去に哀悼の意が寄せられた。更に政界からは安倍晋三・自由民主党総裁をはじめ多数の国会議員、大阪府議会議員・大阪市会議員が植松顧問を悼んだ。また医療機関、大阪府地域医療推進協議会、行政関係、弁護士、取引先企業などからも偲ぶ声が相次ぎ、植松顧問を慕う多くの人々が、別れを惜しんだ。届いた弔電は195通。243もの個人・団体から供花が贈られた。
昭和44年 南区医師会理事就任
47年 堺市医師会理事就任
59年 堺市医師会長就任
平成2年 26年ぶりに無投票で大阪府医師会長に就任。公明正大で透明
な医師会運営を掲げる
(副会長)高階經昭 平山正樹 吉矢生人
(理 事) 水田茂 糸氏英吉 濱田和孝 坪田浩 片岸道也
若林明 榎光義 徳永五輪雄 大北昭 佐藤公彦
菅谷忍 樋上忍八幡雅志 玉城晴孝
(監 事)井上忠宏 田坂茂 〈敬称略〉
4年 無投票で府医会長に再選、第2次植松執行部発足
5年 無料職業紹介事業(ドクターバンク)を開始
6年 府医総合保健医療センター完成
無投票で3選、第3次植松執行部発足
医薬分業など「薬剤のあり方」プロジェクトチームを設置
7年 阪神・淡路大震災で神戸市東灘区へ医療救護班を派遣
臨時代議員会で「国民の医療を守るために行動する」との基本理
念を示す決議を採択
8年 第4次植松執行部発足
日医会長に坪井栄孝氏を推薦。同執行部に当時の糸氏英吉
理事が副会長、菅谷忍理事が常任理事として参画
「国民の医療と福祉をまもる大阪集会」を三師会主催で開催
9年 「救急災害医療部」を発足させる
府医創立50周年記念式典の式辞で「諸先輩が築いた制度
を誤りなく後世に引き継ぐ」と決意を示す
10年 第5次植松執行部発足
将来の人材育成を目的に「医療問題研究委員会」を発足させる
当時の厚生省が示した「薬剤定価・給付基準額制度(日本型
参照価格制度)」の導入に断固反対する決議を採択
11年 政府に国民の健康と福祉を充実させる医療制度改革を要望
宮沢喜一・大蔵大臣(当時)と面会し、診療報酬に係る財源確
保を要望
12年 第6次植松執行部発足
医療に対する国民の信頼回復のため、地域医療活動の功績を挙
げる必要性を訴える
13年 「医療制度改悪に反対する大阪府民1万人集会」を開催
「財政の安定が究極の目標ではなく、財政が安定することで
国民が安心で健康な生活を送れることが究極の目的」と主張。
また、「財政再建を重視した改革ではなく、安心してより良い医療
が受けられる、優しさと思いやりのある改革を望む」との集会アピ
ールを採択
14年 無投票で連続7選を果たす。初めて女性理事を執行部に治験
審査委員会を設置し小規模医療機関での治験を推進
15年 府医定例代議員会の場で、医療制度改革を巡る日医執行部の
対応に「結果責任を問う」との見解を示す
「医療安全推進研修会」を開催
16年 日医役員選挙で211票を獲得。84票差で他候補を破り日医会長
に当選
透明感のある医師会作りを最重点課題に挙げる
医療関係団体を中心とした「国民医療推進協議会」を設置
専門医の在り方について日医学術推進会議で検討を開始
「混合診療解禁反対・国民皆保険制度堅持」に関する署名
600万筆を基に、衆・参両院議長に請願書を提出
医療事故防止に向けた対策の検討を開始
大阪府医師会顧問に就任
17年 医療保険制度改革に対する提案をまとめる
「大学病院の医療に関する懇談会」を発足させる
男女共同参画フォーラムを開催。女性医師支援の見解を示す
とともに日医委員会に女性枠を設ける意向を表す
医師の再教育を含め「医療事故防止研修会」を開催
「国民皆保険制度を守る国民集会」を開催
患者負担増に反対する署名1,764万筆を衆・参両院へ提出
22年 大阪府医師会顧問に再就任
25年 旭日大綬章受章