TO DOCTOR
医師・医療関係者のみなさまへ

ミミズクの小窓

したたかなのはがん細胞か、それとも……

府医ニュース

2016年3月30日 第2779号

 IER5なる遺伝子がある。フルネームは“immediate-early response 5 gene”である。なんだか病院職員のための標語のような名称だが、無論そうではない。今年の1月に国立がん研究センターから、がん細胞では過剰発現したIER5がheat shock転写因子HSF1と結合してheat shock protein(HSP)を誘導しストレスからがん細胞を保護しその増殖に寄与するとの論文が報告された(Scientific Reports Jan.12,2016)。IER5の機能を阻害すればがんの増殖抑制につながる可能性もあるという。
 HSPは他のタンパク質が適切な構造と正常機能を発揮するための“折りたたみ(folding)”を介助する分子シャペロンとして働く。シャペロンとは元来、社交界にデビューする若い女性の介添え役を意味する言葉である。何となく口うるさい女性を連想させる。何人かの顔が浮かぶが不適切の誹りを免れないのでこれ以上は触れないでおく。
 本来、IER5/HSF1は熱、低酸素、酸性環境などのストレスから細胞を守るシステムのはずだが、放射線や抗がん剤に暴露された場合にも発動するらしい。この研究が示すように、IER5の過剰発現が、がん細胞増殖を助けているならやっかいなことである。それにしてもがん細胞はしたたかである。様々な細胞増殖システムを最大限に利用し、同時に免疫チェックポイントやIER5/HSF1などの細胞保護システムをも味方にしている。人間にもこういうタイプは少なくない。何人かの顔が浮かぶが不適切の誹りを免れないのでこれ以上は触れないでおく。
 HSPがTissieresらによって初めて報告されて以来約40年、今も研究が進んでいる注目の分野で、多くの知見が蓄積されつつある。しかし驚くなかれ、健康やサプリの世界には更に膨大なHSP関連の情報が氾濫しているのだ。HSPは健康や若返りにつながる……という文脈である。野菜を短時間熱めの湯にさらすとシャキッとなるので、人間の肌も熱い風呂に入るとシャキッとなる……というのはほとんど笑い話だが、HSPを増やす健康器具、サプリ……ともなれば商魂の逞しさにはあきれるばかりである。
 science、academismの一歩外には、最新の科学的知見ではなく、そのさわりの部分だけを取り込み、evidenceやpeer reviewとは関わりのない情報体系が構築されるカオスの世界が広がっている。それもあくなき経済原理追求のなせる業かも知れないが、情報発信する上での果たすべき責任が放棄されていると感じるのはミミズクだけだろうか。さて、ほんとうにしたたかなのは、がん細胞か、それとも……。