
TO DOCTOR
医師・医療関係者のみなさまへ
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新春随想
府医ニュース
2015年1月21日 第2736号
本紙恒例の郡市区医師会長による「新春随想」。医療界に限らず幅広いテーマでご執筆をお願いし、12人の先生から玉稿を頂戴しました。
皆様、明けましておめでとうございます。先生方もつつがなく新年を迎えられたことと思います。
さて、先生方はどのようにして健康を維持しておられるのでしょうか? 医療に携わる者として患者さんの健康、命を守っているわけですから、患者さんにはいろいろな健康法を指導したり、運動を勧めたりしていると思います。その方法をそのまま先生方は実践されているのでしょうか? なかなかできていないのが現状だと思います。私も整形外科医としてロコモティブシンドロームのことを患者さんに説明したり、ロコチェックを行ってロコモと診断したら、「簡単な運動から始めましょう」と運動のやり方などを毎日のように説明していますが、自分自身はなかなか満足な運動ができていません。毎日の診察に追われ、医師会活動に参加して余った時間がないから運動なんてほとんどすることができないよという先生方がほとんどではないでしょうか。
それでは、もし運動を定期的にしている先生がおられたら、自分の使える時間の中で、健康を守るための運動の時間をどのような位置付けにしているでしょうか? しなければならないことをして、余った時間で運動をしましょうとなってはいませんか? それではだめです。自分のしなければならないことの中で、健康を守るための運動は、できるだけ高い優先順位をつけて行わなければなりません。毎日決めて運動をすることも大事ですが、まず運動をする時間を作り、残された時間の中でしなければならない仕事をしていくというくらいが良いそうです。
大事な仕事よりも優先して、健康を守るために運動をするというのはなかなか難しいことですが、自分の体力・持久力を見直したときに自分の身体が手遅れの状態になっていないように、できるだけ意識改革をしていきましょう。そして平均寿命を伸ばすより、健康寿命を伸ばすようにしたいものです。
今年も、隣接のハウスで正月を迎えた。入居者一同、一階の食堂(陽の当たるさんさんルームと称している)に元旦のあいさつとお祝い膳を囲んで丸14年が経った。このハウス(特定施設併設の有料老人ホーム)で最後までを合言葉にして、土地、住まいを売り、お墓まで処分して入居された方もいる。当初から住んでおられる独り身やご夫婦も、あまり変わらぬ闊達な生活ぶりには舌を巻く。約10年の生活設計を見越して、私を「かかりつけ医」に選び入居された。その間、運営の交代や合併といった大波も超えて、「地主、大家が目の黒いうちは何も変わりません」と宣言する安心感が、入居者の一番の薬であった、と話される。
超高齢社会がひたひたと到来し、ハウス周辺でのざわめきを気にされず悠々と毎日を過ごされておられる姿は、安心・安全の住まいを続ける「地域包括ケアシステム」の局地限定版であったとつくづく思う。隣に住んでいる私も団塊世代で、近いうちの自分の姿であり、役目も果たしながら年齢と相談しつつ真剣に住まい方、死に方を考えたい。
まずは年初に当たり、自分の「かかりつけ医」を誰に診てもらうか、後継者のいない法人の行方を考えることから始めたい。そして、毎日を積み重ね、これらのことができたことに感謝しながら、未来ある若いリーダーを発掘し育てることをやっていきたいと誓う。
今年も、皆さんとともに地域医療、医師会活動に頑張ってまいりますので、何卒よろしくお願いいたします。
10年後の医療・介護はどうなっているのでしょうか? 地域医師会の会長として地域包括ケアシステム構築の最前線に居る私の夢物語りです。
1月7日、午前9時30分にI病院の医療ソーシャルワーカー(MSW)から布施医師会の地域医療連携室に85才男性Aさんの退院調整相談の連絡が入りました。狭心症、類天疱瘡、前立腺肥大でI病院通院中に自宅で転倒し、腰椎圧迫骨折で入院治療を受けるも歩行困難で、尿道にカテーテル留置のまま退院される。通院困難のため、訪問診療、訪問看護、通所リハビリテーション、訪問介護が必要とのこと。まず、主治医は循環器内科医が適任で、皮膚科医と泌尿器科医のサポートも必要であり、通所リハでのリハビリと入浴および訪問看護等については担当ケアマネジャーが交渉中とのこと。
医師会連携室長が担当副会長と理事に連絡の上、各科の候補医師を選び、連携室より医師にメールにて順次連絡して、各科の担当主治医3名を決定し、退院調整会議の日程調整を行い、2日後の開催となった。
1月9日12時30分、それぞれのテレビ電話とコンピューターの前にI病院主治医、皮膚科医、泌尿器科医、病棟師長、MSW等が、一方、在宅担当側も3名の医師、訪問看護師、ケアマネジャー、通所リハの理学療法士、訪問介護員が着席した。病院の診療情報と看護記録はすべて前もって電送されていたので、テレビ電話にて会議が始まり、15分で情報交換等も終わり、翌日の退院が決定した。
1月10日、Aさんはケアマネジャーが手配した車イス対応の送迎車にて病院を退院した。まず、訪問診療は毎週火曜日に循環器内科医、第1・3金曜日に皮膚科医、第2・4金曜日に泌尿器科医が訪問し、看護師は火曜日と金曜日に医師と同じ時間に訪問する。通所リハは月曜日と木曜日と土曜日に通院し、訪問介護員は調理と食事介助目的等で月曜日、木曜日、土曜日の昼以外は1日3回すべて訪問することとなった。以上のプランで、自宅で生活を継続できることとなった。
果たして実現可能でしょうか???
昨年末のこと。講演会の休憩時間に席を離れたのだが、帰ってくると鞄と一緒に置いた資料が床に散らばっていた。なんだか変だと思ったが、帰りのタクシーの中で携帯(iPhone5)が無いことに気付いた。非常に困るのは、明日からのスケジュールが分からないことだ。電話番号の控えもない。かなりショックだったが、明日探せば何とかなるだろうと考えて帰宅した。
その翌朝、講演会場に電話するも携帯等の落し物はないとのこと。座席の付近を見ても無かったとの報告であった。
そこでITに詳しい若者に相談したところ、彼はまず私のiPadを使って、紛失した携帯にlockをかけた。次いでiPadのGPS機能を使って紛失した携帯の位置を確認してくれたが、会場から5㌔離れたところにiPhone5のマークが記されており、地図を拡大すると建物と建物の間にある駐車場であることが判明した。直ちに、彼と一緒に好奇心混じりで現場に向かったが、駐車場にある3台のどれかだと判断された。しかし、どの車かは決定できず、しばらく待っていたが、車の持ち主は現れなかった。とはいえ、ここまで追い詰めたのに取り戻せないのは残念であり、警察に相談することにした。警察官が協力的に現場まで足を運んでくれたが、これ以上は手を出せないので紛失届を出すようにと言われた。もし車の持ち主が現れて運転すればiPad上で携帯が移動するので断定できるが、続けて待機している時間的余裕がない。この時点で取り戻すことを断念して、新しいiPhoneの購入に走ることにした。
9月に発売されたiPhone6が即座に手に入り、紛失した携帯と同じ電話番号にしてもらった。次いで、スケジュール表とアドレス帳をバックアップ機能で移し、24時間以内に以前と変わらぬ状態に戻してもらうことができた。それどころか、iPhoneがバージョンアップしたため、より使いやすく、楽しみも増える結果となったのだった。
IT機器は高齢者にも十分使えるが、トラブルが起こると対応し難い。しかしIT機器ほど便利で楽しいものはない。ときには若い人に教えられながら、今年もITの楽しみをどんどん広げたい。依存ではないが、うまく共存していきたいものである。
どうも「リベラル」の分が悪い。「右」を言われる人達の台頭が著しいが、ここは政治の話ではない。
年末の新聞に大学改革の記事があった。政府の産業競争力会議が、全国の国立大学をグローバル競争に堪える世界水準の研究大学と、地域の拠点大学に、大学の「機能分化」を進めるという。要は産業界の要請に応じて理工系分野で世界トップレベルに持って行こうという話なのであろうが、記事を読んでいて目を剥いた。世界と競争しないロ―カル型大学については職業訓練校にしてしまえという極論も出ているという。文学部英文学科は「シェイクスピアではなく、観光業に必要となる英語、歴史、文化の名所説明力」、法学部は「憲法、刑法ではなく、道路交通法、大型第2種免許・大型特殊第2種免許の取得」を学ぶ方がいいという委員がいるという。これはもう大学ではなく、実学のための専門学校である。
戦後、各地に出来た地方国立大学を評論家の大宅壮一氏は「駅弁大学」と揶揄したが、それなりに新しい国民教育に相応しい学問の府ではあったろう。西欧の中等・高等教育にはリベラル・アーツの長い歴史があり、その考え方は戦後民主化とともに、立身出世主義に代わる教育の柱として導入され、なじんできた。「教養」と簡単に訳されることが多いが、元はギリシャ以来の、奴隷ではない自由人たる市民が備えるべき知識教養技芸とでも言うべきものであろうか。形而上学的学問はユニバーシティ、実学はインスティテュートの長い歴史が西欧には根付いているが、我が国では理系文系の括りで同じ大学という器に入れられている。
経済政策に寄与しなければ学問ではないとは、いかにも貧相な教育観ではないか。初期医学教育の分野でも全人教育の必要性が議論されている。少子高齢化で大学の淘汰が始まっているが、これからの日本人の教育観が見えてこない。
明けましておめでとうございます。
昨年7月より子どもの頃からの夢であったラジコンの「空もの」に挑戦しています。空を飛ばすラジコンは飛行機、ヘリコプターが主流ですが、のんびり飛ばしたいと選択したのが、時々マスコミにも出ている複数のプロペラがあるマルチコプターです。またカメラもついていますので、防災時の情報収集のために使えないかと思いました。最初は数千円の小さな機体で練習し、空中で静止するホバリングも自由にできるようになりました。しかし屋外で飛ばし、2度もロストしました。外でも飛ばせるように、現在は一番人気のある「ファントム2」という機体を手に入れました。これはジャイロとGPSにより安定した飛行が可能で、電波が途絶えても元に戻ってくるGoHome機能も備えています。単に飛ばすだけではなく、機体の下にはGoproという4k等かなりの解像力を持つカメラをぶらさげています。画像安定のためのジンバル装置により気流の影響を受けても、安定した画像となります。高度は数百メートル可能ですが150㍍以下とし、人の頭の上を避ける等安全を心がけています。
人命救助にもなる空きペットボトル投下テストなどを行いながら主に海、川の上で空撮を行っています。防災訓練にも参加予定です。500㍍もある港大橋の反対側に到達成功、また大阪府立急性期・総合医療センターの中央館13Fの上をぐるりと回っての空撮も成功。病院紹介に画像を使っていただけるようで気分良くしています。このカメラからの画像も飛行中リアルタイムで送信機上に設置したモニターが表示されます。これはFPV(First Person View)と呼ばれるもので、離陸場所からの距離・高さ・速度、バッテリー残量、離陸場所も表示される優れものです。
皆さんも挑戦してはいかがでしょうか? 挑戦される時は初フライトまで面倒みてくれる業者がお勧めです。
ラグビーの初試合は高校1年生の5月に行われた「灘甲南定期戦」で、私がこの競技に魅了されたひと時でした。それから大学、社会人を通じて現在まで約60年間プレイを続けています。特に40歳から所属している「惑惑ラグビー倶楽部」では在籍30年を超えました。『我四十にして惑わず』という孔子の言から命名された倶楽部で、戦後食糧難の続く時代の創部です。時を同じくして創部された東京の「不惑倶楽部」、九州の「迷惑倶楽部」とともに毎年三つ巴の「三惑大会」を続けています。この試合だけは根性を入れてぶつかり合い、友情とお互いの寄る年波を確かめます。40代は白、50代は紺、60代は赤、そして私どもは黄パンツであります。
戦後日本でオーバー40ラグビーが盛んになっていくのを見たカナダでも、多くの倶楽部が結成され日本と交流戦を数多く行い、友情を深めてきました。しかしラガーはあまり長持ちしないようで、惑惑倶楽部でも80歳を超えた紫パンツの現役プレーヤーはわずかです。
私の高校時代、日本対カナダの国際試合が行われ、ある代表選手のプレイに感銘を受けました。その後、カナダに遠征した時、彼の家に招かれビールをご馳走になりながら、ラグビーの奥義を教えて頂いたことがありました。山中の家であり小鳥がさえずっていました。突然さえずりが消えました、彼は黙って紺碧の空を指さしました。「ホークだ、鳥は茂みに潜んでしまったのだよ」と楽しげに教えてくれました。彼の防御の隙間を読みとる目はまさしく鷹のそれであったのを想い起こします。彼の理論の根幹は相手にプレイのスペースを与えないことにあり、時代を先取りした考えであります。レベルは異なっても目指すプレイは同じであると思っています。
1月5日は花園第一グラウンドで準決勝の大観衆が消えた後、教員団の皆様と関西ドクターズの試合に出場させて頂きました。これが本年の初戦であり、正月のお屠蘇の合間に走りこみました。
毎年正月休みは花園に出かけ全国高校ラグビー大会を楽しみます。寒風を吹き飛ばす、はつらつとした選手たちのプレイに一瞬自分も昔に立ち返ったような気分になり、もう少し続けようかと思うのであります。
新年明けましておめでとうございます。
医者は「生活習慣病は怖いですよ。予防しましょう」と話をする。メタボの私は、突然昨年7月よりダイエット、間食なしの生活をしている。最近私の周囲で起こった2人のプロゴルファーの生死の話。生活習慣病と関係? 運命ですか?
昨年9月15日の事件。その日はプロを目指すゴルフ研修生との競技会。私はその会の会長。ラウンド終了後、興奮気味の所属プロ(37歳、20年前から付き合い)から朝あったことの報告を受けていた。話の途中から「胸、みぞおちが痛い」とのこと。顔色が悪くなったので、腰をかけて休むように言ってその場を離れた。ところが数分後、職員が呼びに来た。「プロがトイレの前で倒れてる」「救急車」。駆けつけると多量の冷や汗。意識は戻り「前胸部の真ん中に管があるように痛い」。脈は除脈、極端に弱く左右差あり、不整脈あり。「胸部大動脈解離?」実は彼のお父さんが大動脈解離で手術した。本人に「まさかお父さんと同じ病気になった?」聞いても当然「胸が痛い、苦しい、吐き気、便が出る」。約25分で救急車到着。後日談で、救急隊員も命が危ないと感じたようです。祝日であったが、たまたま奈良県立医科大学附属病院の当直が心血管外科で、CT検査で動脈解離Stanford A。その夜手術、私は次の日朝早く「手術終了しました」の連絡。後日、彼は遺伝子検査を受けた。
次は昨年11月24日太平洋御殿場コース帰り。渋滞も無く、西名阪針インターに夕方到着した頃、携帯に前述のプロから連絡。「私と同年のプロ(関西で活動)が亡くなった」。びっくり仰天。前日ゴルフコンペの帰りから体調が悪かったらしい。昨夕、「自宅に帰る」とコールしたが、自宅に戻らず。次の日私の知り合いのプロとの待ち合わせに現れず。家族も連絡が取れないので警察に捜索願を出した。夕方警察から電話。24日朝、コンビニの駐車場で不審車両として発見され、監視カメラの映像には缶コーヒーを買い車に戻り、胸を押さえてかがんでいる姿が映っていたという。
私の嫁が一言。「倒れるなら人前で」――それなら助かる時もある。
私は3月の大相撲春場所(大阪場所)の前日にはミナミのちゃんこ料理屋によく行きます。その店には必ずふれ太鼓が来るからです。出羽の海系のちゃんこ屋さんで、最近は相撲に興味のある人が減ったのか、当日でも予約が取れる時があります。7時前後に背中に相撲部屋や関取の名前の入った粋な法被姿の4人の呼び出しさんがやってきます。
「相撲はあす、初日じゃんぞー」「鶴竜には安美錦、白鵬には遠藤じゃぞ」などと威勢の良い太鼓の音色と昔ながらの独特な力強い節回しで初日の取り組みを呼び上げます。他のひいき筋もまわるので、時間は15分くらいで結びから5番程度を呼び上げます。
ふれ太鼓は相撲の初日の前日に、呼び出しが太鼓をたたきながら興行が始まることを町中に触れ回ることからきていると言われています。
江戸時代には本場所が始まる前日に行司が主宰する土俵祭が行われ、終了後に呼び出しが天びんにつるした太鼓をたたきながら土俵を3周した後、明日から相撲が始まることを告げるために市中に繰り出しました。当時は相撲興行を知らせるマスコミ等の手段がなかったため、ふれ太鼓の役目は大変重要で、また降雨等天候が悪く中止になった後、再開を告げるときにも行われました。市中に出た呼び出しは各所を回り、明日から相撲興行があることと初日の好取組の力士名を独特の節回しで触れ歩きます。今も続いているふれ太鼓はマスメディアの発達していなかった頃の名残であります。また、巡業や引退興行にもふれ太鼓は登場します。特に地方都市の巡業ではめったに見る機会がないので大変評判で、人気があるそうです。
今年は3月7日の土曜日で、予定がなかったら行ってみようと思っています。必ず番付表も頂けます。番付表は大相撲における力士の順位表で、ここから転じて様々なものの順位付けに用いられます。長者番付や人気番付等です。また、格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」もこれからきています。
初詣はどこの家でも新年に行われる当たり前の行事だと思います。
新年の朝を迎え、お節料理をつまみながら一杯やった後にほろ酔い加減で近くの神社にお参りする人もいれば、夜中から出かけお参りを済ませてからゆっくりとお屠蘇を祝う方もおられるでしょう。私も、以前は旅行に出かけたりしておりましたが、最近は三が日のうちに必ず京都に初詣に出かけるようにしています。もっとも、旅行に行っておりました時も、7日までには必ず初詣に行くようにしていました。我が家では、初詣は「東丸神社(あずままろじんじゃ)」に行くことになっています。と言っても結構知らない方がおられますが、京都の伏見稲荷大社の中にあるこじんまりとした神社です。知る人ぞ知る学業・受験の神様です。なぜここに参るようになったか、その訳は私の父方の祖父の話まで遡らねばなりません。祖父は、亀岡の田舎に住んでいましたが、父が旧制中学に入学してからずっと毎月25日には北野天満宮にお参りしていたそうです。その習慣は、父が戦地に応召されていた6年間も欠かさず続けており、その帰りに父の婚約者である母が住んでいた茨木市の家を訪問していたそうです。
父も、私と弟が中学校に入学してからはさすがに毎月ではありませんでしたが、日曜日などには時々北野天満宮に母と一緒にお参りしていました。正月にはほとんど毎年「天神さん」に初詣に出かけるようになっていましたが、いつの頃か伏見稲荷とその東丸神社に参るようになっていました。お参りに行くと神社のお札を買い、参道の店先で売っている雀の焼き鳥をあてに美味そうに一杯やっている父の姿が思い出されます。気が短くて、偏固で患者さんにもずけずけ物を言う人でしたが、勉強以外で怒られたことはほとんどありませんでした。私が大学の研修医になり、夜10時頃家に帰ると父は母を相手に一杯やっており、私も加わり、飲みながら大学病院でのことを話すと、楽しそうに自分の若い頃の経験などを話してくれました。そんな父も孫の顔を見ることなく30年前に他界しました。私も一児の父になり、気が付けばその息子が中学受験をする頃になると「北野の天神さん」や「東丸神社」にお参りするようになっていました。中学受験や大学受験、更に国家試験の合格祈願が終わっても初詣には必ず「東丸神社」にお詣りしています。あのこじんまりした「東丸神社」の境内が好きですし、そこに行くと何となく父の気持ちが分かるような気がするからです。
新年明けましておめでとうございます。今年の干支は未ですが、未の由来は、群れをなす羊は家族の安泰を意味しており、財テクなどの才を持つといわれ、財をなすことに向いた人が多いと言われている。
昨年のスポーツハイライトのひとつは何といってもバルセロナで行われたグランプリファイナルで金メダルを獲得した羽生結弦選手であろう。彼は昨年11月8日のグランプリシリーズ中国大会の練習中に中国選手と激突し、負傷した。強行出場した本番で、ジャンプに失敗し、5度転倒したが、2位に入賞した。まさに驚異的な精神力と勇気ある決断である。魂の演技に感動した人は多かったが、無謀といわれるかもしれない。普通、脳震盪を起こすと24時間安静は常識である。再起不能になる可能性は十分にあった。事実、柔道の試合で脳震盪を起こし、試合を継続したため、硬膜下血腫で後遺症を残した事例は記憶に新しい。選手生命を守るため、ドクターストップなどの制度が必要でなかろうか。羽生選手は続いて、11月29日のNHK杯にも出場し、4位に入り、グランプリファイナル出場を決めた。この時点では、いまだ体調不良は明らかであった。しかし雨が降らなければ虹は出ないという言葉もある。グランプリファイナル決勝は12月13日、スペインのバルセロナで行われた。羽生選手は、2本の4回転ジャンプと7本のトリプルジャンプをこれ以上ないクオリティで決め、見事優勝。日本男子初のグランプリファイナル2連覇を達成した。演技の内容は、羽生劇場ともいえるほどほぼ完璧で、観衆をうっとりさせる優雅な演技だった。最後に彼のメッセージから「生きているからこそ、全てを生かしていかなくてはならない」を紹介する。
本年も皆様にとって最良の年になるよう祈願しています。
皆様方には初春をご健勝でお迎えになられたことお慶び申し上げます。
昨年から今年初頭にかけて、吹田市医師会では移転・改装で3回の大童がございました。昭和42年大阪府保健医療財団が開設した千里保健医療会館は平成15年に済生会千里病院に売却され、老朽化のため建替えが行われます。
一題。同会館に間借りしていました医師会立訪問看護ステーションとケアプランセンターの移転でした。半ば公的要素の強い事業でもあり、行政とのすったもんだの交渉もありましたが、無事6月に津雲台近隣センターのテナントに入居することができました。20年間の資料を携えての宿替えは大変でした。きれいで広くて、空調がよく効くと職員11名が新たな気持ちで再スタートを切り、地域に根をおろした事業に励んでいる姿は頼もしい限りです。
二題。同会館にあった吹田市休日急病診療所も移転を余儀なくされ、市の代替地もなく、3年間の暫定で今年2月に医師会事務局のある総合福祉会館に移ることが決まりました。しかし、感染症対策を考慮した時、「乳児健診や重度障害児が利用する施設との併用は適当ではない」「医療資源が吹田市南部に集中しすぎる」との批判もあり、恒久的な移転先を医療審議会で検討しています。
三題。ITを含めた事務機器が膨大となり、かつ、新入職員の増員(計9名)で身動きの取れない手狭になった医師会事務局の改装です。平成当初からの紙資料の整理と廃棄は1週間に及び、ごみ収集車8台分となりました。年初にはきっと能率的な事務所に変貌しているでしょう。これから厳しい医療界の課題に対処していただく役員や会員、そして事務局員にとって居心地のよい環境になればと願っています。お近くにお越しの節は是非覗いてみてください。