TO DOCTOR
医師・医療関係者のみなさまへ

新春随想

郡市区等医師会長

府医ニュース

2019年1月16日 第2880号

 本紙恒例の郡市区等医師会長による「新春随想」。医療界に限らず幅広いテーマでご執筆をお願いし、12人の先生から玉稿を頂戴しました(順不同/敬称略)。

春の光 中央区東医師会長 前久保 邦昭

 「娘さん、遠くへお嫁に行かれたんですね…」「新潟に嫁がれたんですか…」
 昨年の新春随想に載せていただいた『春が来た』で娘の嫁ぎ先を〝~降雪で新幹線が止まるのは決まってその場所だ。冬には雪に閉ざされてしまう田舎の里しか思い浮かばない〟と表現したのを読んで、多くの方が声をかけてくださった。場所を特定したわけではないが、〝新潟〟と信じ込まれた方が数人。遠くは〝青森〟だった。
 いずれも言外に遠く雪深い農家に娘を嫁がせる親への憐憫の思いがこもっていた。
 しばらくして娘の友人から、「新潟の農家の長男にお嫁に行くんやってね」と連絡があり、娘の知るところとなった。「何で私が新潟に行くことになってんの。車で1時間、滋賀県やのに一体何書いたん!!」『いやいや、気持ちは青森程も遠かったんや』「訂正しといてや!」――。親としての気持ちの距離は確かに青森ほども遠かったが、気恥ずかしいこともあり、府医ニュースに載せることを本人には伝えていなかったのだ。
 案ずるより産むが易しとは言うが、幸いなことにその娘にもすぐに子どもができ、心配していた畑仕事もつわりで免除され、あれよあれよと思う間に1児の母となり、今は育児に勤しんでいる。結婚前の親の心配も孫のつぶらな瞳が吹っ飛ばしてくれる。妻はせっせと車で滋賀まで往復し、孫の写真を眺めてはニヤニヤしている。
 〝新潟〟〝青森〟〝遠くへ……〟。読んでいただいた皆様に嘘をつくつもりはなかったものの、過大表現になってしまいごめんなさい。それにしても驚いたのは、あの駄文が思いもよらず多くの方の目にとまったことだ。府医ニュースが広く読まれていることを再認識し、表現することの難しさを思い知った。雪深かったはずの家に今、光が射している。読んでいただいたすべての方に春の光が射しますように。

至福の刻 住之江区医師会長 松嶋 三夫

 「この子、ノーベル賞をもらいますよ」。一昨年6月に生まれた初孫。B病院産科で、同日に生まれた赤ん坊が8人もいるのに、たったひとり男児で、ほかはすべて女児。助産師さんから「きっと、一生モテ続けるわ!」と恐悦至極のご宣託。
 理知的と言えば良いが、老け顔というか、明らかに私似ではない。変に赤子らしくない顔立ちで、どこへ行っても6カ月は老けて見られる自慢の孫。
 スマホの顔写真を見るなりの第一声が「ノーベル賞」。発言の主は喜寿を超えて、なお矍鑠として、年に2体ずつ仏像を彫り続けている神仏のご加護のある女性眼科医だから、間違いなく信頼できると、私も頭から信じて疑わない。
 「ノーベル賞」と聞いた瞬間から、頭の中は妄想と忘我の境地。しばらくは「上の空」。これこそ「生きてきた中で一番幸せ」と宣うた、中学2年でオリンピック水泳金メダルに輝いた岩崎恭子さんと同じ心境。いや、もしや空耳かも? 「えーッ、なんて言われました?」再確認。「この子、ノーベル賞もらいますよ」――同じ言葉だ。間違いない。心はウキウキ、それでいて頭は真っ白。そのうちアルファー波がジュワッと頭一杯に満ちあふれた。ノーベル賞の爺父になる?! いや、待てよ。仮に35歳の若さで受賞したとしても、私は既に101歳。あかん、あっちへ行っとるわ! それよりどのノーベル賞? 医学生理学賞? 文学賞? はたまた平和賞? 早いとこ聞いとかな! 頭は巡る。回転木馬。
 宴もたけなわ、かの女性仏師眼科医が、そっとささやいた。『みんなに言うてます。すごく喜ばれるの』……。衝撃の鉄槌。唖然として覚醒。そんなん、あるはずない。分かっていたはずや。
 一瞬の喜びだったけど、女性仏師眼科医に感謝。「至福の刻」に大感謝。

社会が転換、自らも変革を 高槻市医師会長 木野 昌也

 新年明けましておめでとうございます。先生方におかれましてはつつがなく新しい年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 さて、我が国は時代の大転換期の真っ只中にあります。本年の5月に新天皇が即位されますが、新しい御代の安泰とともに輝かしい時代となることを祈念せざるを得ません。振り返れば、私達は戦後の復興期を懸命に生き抜き、数々の困難を乗り越え、昭和の時代には世界有数の経済大国に成長いたしました。その経済力は一時米国をも凌ぐ勢いとなり、我が国の経済や社会制度は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界中でもてはやされました。日本人の学習意欲や読書習慣は、数学や科学分野における実力の源として、そして日本人の勤勉さは通産省や大蔵省主導の経済競争における強い原動力として、日本的経営は米国への教訓として高く評価されました。しかしその後、バブルの崩壊とともに我が国の経済は低迷を始め、気が付けば平成の時代となり、日本の社会は20年以上にもわたるデフレ経済から抜け出せない状況にあります。我が国のGDPと税収は平成9年をピークにいまだ復帰できていません。あれほど賞賛された日本独自の制度や経営は、今グローバル・スタンダードの名の下に変更を余儀なくされています。これから日本の社会はどこへ向かおうとしているのでしょうか。
 そのような中、私達は世界一の高齢社会を迎えています。医学の目覚ましい進歩と世界一の高齢化、激動する世界の環境の変化を前に、日本の社会は今、急速に大きく転換しようとしています。ほんの数十年前には予想もできなかった現実が目の前に広がっています。医療の現場を預かる私達は、世界に冠たる国民皆保険制度を維持しつつ、私達自身も変革していかねばなりません。今後も、高槻市医師会は様々な事業に取り組んで参る所存です。本年もご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

新年を迎えて 東成区医師会長 長田 栄一

 謹んで新春のお慶びを申し上げます
 昨年9月に発生した台風21号は、大阪にも大きな被害をもたらしました。関西国際空港では、空港全体が閉鎖されるという事態に陥り関西経済にも大きなダメージを与えました。東成区においても、家屋崩壊などの甚大な被害を目の当たりにし、自然災害の脅威を痛感しました。被害に遭われた方々には、心よりお見舞いを申し上げます。
 今年は、天皇陛下が4月30日に退位され、皇太子殿下が5月1日に即位されます。江戸時代後期の光格天皇以来およそ200年ぶり、また、生涯にわたり天皇であり続ける制度が導入された明治以降では、初めての天皇の退位が実現することになりました。
 さて、私が東成区医師会長に就任して6カ月が過ぎました。正直、会長職に関して自身は適材ではないと就任を固辞していた立場でしたが、この半年間を振り返ってみると、いろいろな景色が見えて来たように思います。
 まず、大小に関わらず多くのコミュニティと連携を取るにあたり、会合への出席を余儀なくされる機会も増え、その都度、スピーチや会報誌への寄稿が求められます。元々、人前で話すことは不得手で文才にも恵まれていない上に、各々の会についての歴史や理念を把握するためにリサーチが必要となります。初めは不慣れで時間に余裕もなく苦痛に感じていましたが、回を重ねるごとに未知なることを学ぶという学生時代に味わった新鮮な気持ちを抱くようになりました。
 また、医師会運営においても多くの処理事項に対処しなければならず、深く悩んだ時期もありましたが、大先輩から「会長がひとりきりで考え悩むのではなく、理事の先生方とともに相談して決めていくようにすればいい」とアドバイスをいただき、気持ちが少し楽になりました。実際に、皆が懸命に考え、ともに行動してくれており、恵まれている状況に感謝しながら、私なりにできることを務めさせていただきたいと思っております。
 本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

小さな医師会ならではの いいところ 高石市医師会長 矢田 克嗣

 新年明けましておめでとうございます。先生方におかれましては、ますますご健勝のことと心よりお喜び申し上げます。今年も良い年でありますようお祈り申し上げます。
 さて皆様は高石市ってご存じですか? 堺市の南にある小さな町です。人口もついに6万人を切り、子どもの数も減り、高齢化が進んでいます。大阪府内でも高石市といっても知らない人が多いのに最初はショックを受けましたが、最近は慣れてきました。確かにこれといった産業もありませんし、地産の名物もありません。きっとふるさと納税もあまりないのではと心配しているのは私だけでしょうか?
 私は昨年6月、高石市医師会の会長という重責を仰せつかりました。その医師会はどうかといいますと、A会員50名程度の小さな医師会です。会員数が少なくとも、医師会の仕事はそんなに少なくはありません。ご高齢の先生方を除くと、たいていのA会員の先生は何かの役をしていただいています。ただ会員数が少ないからだけではありませんが、どの先生も親切で、いつも助けてくれます。会長になった際も他の医師会の先生方から「忙しいだろう」と言われますが、みんなで仕事を分担してくださるので、そんなに忙しくはありません。
 会員間の連携も密で、病診連携・診診連携もうまくいっているように思われます。ゴルフ旅行やグルメの会を開催したり、会員によるレクリエーションもさかんになっています。小さな医師会ならではのいいところがたくさんあると思います。
 今年の目標は会員の先生方に医師会に入ってよかったと思ってもらえる医師会を目指すこと、せめて大阪府医師会の先生方だけにでも高石市を知ってもらいたいということです。

流れ去りし日の航海体験 松原市医師会長 上野 憲司

 新年明けましておめでとうございます。
 私の母校は大阪市立大学。市大、府大の統合で、その名称がなくなる日が近付いている。そんな中、大学院生時代の思い出をひとつ。
 大阪市は、今年市制130周年となる。平成元年に行われた100周年記念事業古代船なみはやプロジェクトを回顧する。
 医局長が、若手部屋に現れ、「船医にならないか」と。話は、遺跡から発掘された舟型埴輪を木造で再現した船で、夏に大阪から釜山まで漕いでいくという壮大な実験を行う。100周年記念事業と日韓親善のため。瀬戸内海航海中は、トラブルにすぐ対応できるが、日本海に出ると、船に医師が必要ということで、スポーツ医学をやっていた小生に白羽の矢がたった。大阪市と読売新聞社、よみうりテレビの共催であった。大阪市の担当とニューオオタニのトレーダーヴィックスで初対面。計画を聞き、驚くことばかり。最終対馬北端から、釜山を目指し漕ぎ出すが、もしかすると島根県に流れ着くなんて。話はそれるが、その後トレーダーヴィックスの大ファンになったが、今はなくなり残念。
 そして7月23日日曜日午後、佐賀県呼子港で合流。8月1日から3日の間に到着目標。船旅の開始。船上で釣り上げ、すぐに食べたイカは最高だったのはいい思い出。
 さて、「航海はうまくいったのかい」って。梅雨明け10日はいい天気と言われている中、まれにみる悪天候。台風が次から次へくるくる、ついには、陸上に避難、海は荒れて、結局10日間の延長。肝心の船は、重すぎて漕げない、進まないって、ずっと曳航したまま。8月11日朝、釜山の防波堤内から、漕ぎ出し、何とか到着。歓迎イベント、骨付きカルビは美味しかった。航海実験は失敗だったが、医師4年目の若坊主には、大変良い経験。それは、新聞の取材の方法と文章の巧みさ、テレビ番組の作り方、そして、裏側の実態を知る。その時書いた感想記には、もっといい話にしてくれとダメ出しくらった。今は、バブリーな事業も、船も、記念館も、時代の流れとともに消え去った。

小さなスズメ! 布施医師会長 松山 浩吉

 スズメが小型化しているとの新聞記事を目にしました。私はこの東大阪で開業してはや20数年が経ちます。開業当初、まだ診療所の周囲には田んぼや空き地が多くありましたが、バブル崩壊後に一気に住宅地へと様変わりしています。
 当時は、秋の稲刈り時期にはたくさんのスズメ達がここぞとばかりに、稲刈りの後に慌ただしく零れ落ちた稲をついばむ姿を楽しく眺めていました。
 しかし最近、診療所周辺には田んぼも無くなり、秋になっても一向にスズメ達が飛び交う姿が見えません。
 あの記事以降、スズメを何度か目にするのですが、食べ物となる稲も無くなり、小さくなっています。以前には丸々と太ったスズメを見かけていましたが、今では小さなスズメ達ばかりです。ちょっと風が吹くと飛ばされそうで、見ている私まで飛ばされそうに感じます。
 また最近、温暖化で一部の動植物が小型化してきているとの論文を目にしました。気温が上がり、降水パターンが変化することにより、生物の成長に大きく影響を及ぼすとのことですが、食べ物となる植物が減少するのが最大原因では?現在の温暖化のペースは5600万年前よりもはるかに速く、多くの生物種で小型化が始まっていると論文は指摘しています。
 しかし、小型化は悪いことばかりではないのでは?スズメがこのまま小型化していくのと同じく、人類も小型化していくと考えると、少し可愛く思えてきます。例えば、小型化により、食料は少しで、また土地も住居も狭くてよく、すべてが小さくなるので、地球環境には良いことばかりです。今後人類の人口が増加することは確かですが、この解決策は人が小型化すれば十分対応できるでしょう。数千年後には、この地球は今以上に多くの人が住む、小人の国になるのかと想像すると少し面白く感じますが、これが地球からの人類への返答かと思うと、なんとなく複雑な気持ちでいっぱいです。
 新春を迎え、本年が皆様にとって良い年になるように心より祈念しています。

大規模災害へ備える 東淀川区医師会長 春田 龍吾

 新年明けましておめでとうございます。昨年は、大阪北部地震、強力な台風21号の被害と本当に災害を身近に感じた年でした。ここで大阪北部地震の体験談について書かせていただきます。
 6月18日の朝は、そろそろ出勤と立ち上がった時でした。突然の大きな揺れでびっくりしましたが、とりあえず医院へ向かいました。渋滞を心配しながら新御堂筋に入りました。その頃、しきりと医師会の災害対策メーリングリストのメールと、医師会役員のラインが入っており、「これは診察どころではないなぁ」と感じながら、9時前に医院までたどり着きました。地震の対応のため休診を伝え、区役所の災害対策本部へ入りました。本番の災害対策本部詰めは初めてです。防災無線を通して東淀川区内の様子が次々と入って参りました。またメールで入る医療機関の安否情報、診療の可否についても、本部のリストに書き込み、医療機関と行政の情報共有を図っていましたが、高齢者がブロック塀の下敷きになり亡くなられた情報や、淀川キリスト教病院の周辺の踏み切りの遮断機が、阪急電車の不通のため上がらず、救急車や、来院患者がたどり着けず困っているとの情報も入って参りました。11時頃になり、ようやく市民協働課より避難所を開設することが伝えられましたが、救護所の開設については、区内の医療機関が開き始めていたので、救護所は不要との決定にて、お昼前に災害対策本部を後にしました。
 東淀川区医師会では、3年程前に大阪市と大規模災害時協力の協定書を交わし、その折にMリストと言うSNSを利用した、災害対策メーリングリストを作り会員に参加を呼びかけて参りました。当初は参加者も少なかったのですが、防災訓練とメールの訓練で、次第に数は増えていきました。今回の北部地震の後は更に増加し、会員の災害に対する意識が高くなってきていると感じております。今回の地震により想定外の問題点も炙り出され、ある意味有意義な経験となったのではないかと考えています。これからも、メール送信訓練により会員の災害ネットワークを強めて、来るべき大規模災害に備えていければと考えております。
 そして今年は災害の無い穏やかな年となってくれることを心より祈っております。

サザンオールスターズ 大正区医師会長 樫原 秀一

 作品シングル55曲、アルバム15、メンバー5人の国民的ポップスバンドが昨年結成40周年を迎えた。シングル売上枚数上位曲を年代順に並べ、印象的な出来事を併記して昭和の終わりから平成を振り返った。
 昭和53年6月25日:『勝手にシンドバッド』でデビュー、18歳の私は今までにないサウンドに衝撃を受けたことを今でもはっきりと覚えている。この年、「ザ・ベストテン」が放送開始、ヤクルト球団初優勝、青木功が世界マッチプレー選手権優勝。54年:3rd『いとしのエリー』が大ヒットし第30回NHK紅白歌合戦に初出場、第1回共通一次試験開始、「ウォークマン」発売。57年:14th『チャコの海岸物語』、ソニーCDプレーヤー発売。59年:20th『ミス・ブランニュー・デイ』、アップル社からMacintosh発売、スペースシャトル打ち上げ。60年:アルバム『KAMAKURA』を発売、日本航空123便墜落事故、NTTが携帯電話「ショルダーフォン」発売。平成4年:30th『シュラ★ラ★バンバ』、31th『涙のキッス』(「ずっとあなたが好きだった」の主題歌)、東海道新幹線「のぞみ」運転開始、チェッカーズ解散。5年:32th『エロチカ・セブン』(「悪魔のKISS」の主題歌)、福岡ドーム完成、細川内閣発足。7年:36th『あなただけを』(「いつかまた逢える」の主題歌)、阪神・淡路大震災、横山ノック大阪府知事誕生。8年:37th『愛の言霊』(「透明人間」の主題歌)。12年:44th『TSUNAMI』は293万枚で日本レコード大賞受賞、45th『HOTEL PACIFIC』もヒット、介護保険制度施行。15年:47th『涙の海で抱かれたい』(「僕だけのマドンナ」主題歌)。21年:各自がソロ活動し、桑田氏は食道がんの治療に専念した。23年3月東日本大震災、24年山中伸弥教授・ノーベル賞受賞。25年6月に活動再開、8月に『蛍』(「永遠の0」の主題歌)、生活保護受給者のジェネリック医薬品の使用が原則義務化。26年:9月に55枚目のシングル『東京VICTORY』(第65回NHK紅白歌合戦特別出演)、消費税5%から8%に、あべのハルカス開業。30年:6月『闘う戦士たちへ愛を込めて』、8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018」に出演、大阪府北部地震、7月豪雨、台風21号、本庶佑教授・ノーベル賞受賞。
 東京オリンピック、大阪万博での活躍も楽しみだ。

余生を生きる 生野区医師会長 谷本 吉造

 新年明けましておめでとうございます。
 喜寿を迎えた頃から、これからの余生をどう生きるか、死について考えることが多くなりました。親しい友人、知人の訃報、職業柄患者の死を看取ることも多く、そうしたことも一因だと思います。死を身近に感じる年齢になったのかもしれません。
 いつも思うのは、人にはその人の「天寿」というものがあるということであります。「天寿」を『広辞苑』で引いてみると、「天から授けられた寿命。天命」と出てきます。「天命」というのは天から授かった寿命のことでありますが、定命というのは仏教でいう、もともとの命の長さは定まっているという考え方からであります。作家・瀬戸内寂聴さんも人は生まれながらにして定められた生命があると説いています。お釈迦様の説いたこの世の唯一の心理は「色即是空、空即是色」。つまり、いかなる物事もすべて変化に晒されていて、一瞬たりとも留まることはないということであります。これはある意味では勇気を説いた、また人間を勇気付ける教えかもしれません。
 「諸行無常」という教えは、儚さとか、もののあわれとか、わびだの、さびだのではなしに、老いを含めた物事の変化に耐える勇気を教えたものとも言えるでしょうか。過ぎて行った者達への懐旧こそが、老いた日々の充実のための糧でもあり、それは決して過去への執着だけではなく、将来への新しい期待を育んでくれるものであるかもしれません。人間は誰しもそれぞれの述懐を抱きながら老いて、死んでいく。そして、それぞれの懐古は孤独で、誰にも伝わるものではありません。だから他人同士の、お互いの人生への本当の理解なんてあるものではないと思います。老いるということは、すなわち死に向かって近付いているということだし、その限りでは、人間は自分の肉体の老いを気にして、とうとう自殺までしてしまったヘミングウェイもいますが、大方の人間は気にし、悩みはしても自殺まではしないでしょう。しかしその過程でそれぞれ苦しんだり悩んだり迷ったりはします。どんなに偉い人でも、どんなにお金持ちの人でも、私の見守る前で年を取っていき、亡くなっていきました。今まで仰ぐように大きな存在に見え、魅力に満ちていた人達も年老いていき、その魅力を失い、あるいは年に沿った円熟さを見せ、新しい魅力を備えていくのを見つめながら、人間の運命に逆らうことはできないものであります。
 人は、突然病み、あるいは思いがけなくも惚けてきたり、ある人は自分でそれを承知しながらしきりに自分を繕ったり、懸命に老いに抵抗したり、諦めてみたり、様々な姿を見せてくれます。人の命などというものは、実に分からないものであります。今日とも知れず、明日とも知れないのが、私達の命であります。
 生と死の間で生きている人もいます。現在は、今、自分の身に何が起こっても受け止めなければならないと思っています。捨て身の心境であります。

幼き目の医療現場に唖然 西区医師会長 永田 昌敬

 新年明けましておめでとうございます。
 平成最後の新年が明けました。さて、いたるところでIT、ICT、IOTの文字が氾濫しております。日本では「IT」がよく使われていましたが、国際的には「ICT」を用いるのが一般的です。また、近年の日本でも省庁を中心にICTが用いられるようになりました。釈迦に説法と思いますがITとは(Information Technology)、PCやインターネット、通信インフラなどを用いた「情報技術」のことです。ICT(Information and Communication Technology)は「情報伝達技術」と訳されます。ITとほぼ同義ですが、ICTでは情報・知識の共有に焦点を当てており、「人と人」「人とモノ」の情報伝達といった「コミュニケーション」がより強調されています。IOT(Internet of Things)は「モノのインターネット」と訳されます。IOTは、PCやスマートフォンなどの従来型の通信機器を除いた、ありとあらゆる「モノ」がインターネットとつながる仕組みや技術のことを指します。現在我々は産業革命の真っただ中で生活をしています。
 先日、診察室で70歳の女性からこんなことを聞きました。「先生、最近の孫(4歳)のお医者さんごっこは変わっていますよ。聴診器で『もしもし、どうしました』なんかでなく、PCのキーボードをたたきながら画面を見て『どうしましたか?』と聞いていました」。
 お孫さんは医療の現場を見て、医師の仕事はこのようなものだと思っているのかと唖然としました。対面診察は原則です。心に銘じておかなければならない一言でした。
 今年もよろしくお願いいたします。

台風21号 豊中市医師会長 地嵜 剛史

 昨年は地震、豪雨、台風と災害続きでしたが、皆様は大事無かったでしょうか。今年は、平穏な日常を365日、年老いた猪のごとく悠悠閑閑と進みたいと願っています。
 平成30年9月4日、午前診の終了間際、窓を打ち付ける風が急に強くなってきました。水たまりに襲いかかり水煙を舞い上げる風に、朝の決意も打ち砕かれ、急きょ休診として、自宅に帰りました。暴風で大きく揺れる木を眺めながら昼食をとっていると、テレビの画面が突然消え、すぐに何事もなくアナウンサーの声が流れ出し、そして今度はじらすように数分おいて一瞬点灯したかと思うと、遂に電気の開通を待ち望む気持をもてあそぶように、停電が続きました。この時、各地の電柱が倒れ、豊中市内でも医師会をはじめ数日間も停電が続く地域が出るとは知る由もありません。
 夕方近くになると、晴れ間も見え始め、道路の所々に自分の居場所を突然失って散らばっている木々を除けば、いつもの初秋の夕暮れが訪れました。今日は第1火曜日、午後9時から医師会の理事会がある日です。スマホで確認した暴風警報は既に解除されています。理事会に備え、まず電動ガレージのシャッターを上げようと、天板を外し歯車にチェーンをかけて引っ張るのですが、1㍍引っ張って、やっと1㌢ほどしか上がりません。汗だくで作業を終えたところへ、事務長から、「医師会は停電で会議室が使えない」との連絡が入りました。信号の消えた道路を、医師会まで車を走らせました。事務長と近くに住む事務員、私の3人で顔を突き合わせて、懐中電灯に照らされる連絡網を囲み、一人ひとりに理事会中止の連絡をしました。
 「台風の通過は昼過ぎやから、夜診が終わってから帰って、理事会に行ったらええか」と油断していました。想定外の大きな事態でした。そして電気の重要性を痛感させられました。文明が発達すればするほど、生活は脆弱になるようです。周章狼狽の1年でした。